中途半端を自認しながらも根っからの鉄道好き。そんな「鉄分」濃いめの編集者が、鉄道にまつわる四方山話を展開する。
時刻表を眺めていて、数字の羅列の中に急行とか特急の文字があると心が躍る。お気づきかと思うが、鉄道が好きなのだ。鉄道ファンかと問われれば調子を合わせてそう言うだけの話で、造詣が深いわけではない。列車に乗るためだけに出かけることもないから「乗り鉄」でもない。愛好家としては軽輩の身ではあるが、鉄道各社のダイヤ改正が集中する3月は気もそぞろとなる。やはり「鉄分」は濃いめなのだろう。
春は出会いと別れの季節。鉄道も同様で、ダイヤ改正に合わせてお目見えする列車もあれば、現役を退く列車もある。国鉄ではかつて、春ではなく、毎年10月にダイヤを見直していた。根本からダイヤを見直す改正を「白紙改正」といい、なかんずく昭和43(1968)年10月の改正を「ヨンサントオ」、昭和36(1961)年10月の改正を「サンロクトオ」と呼び、鉄道ファンにとっては「白紙(894年)に戻そう遣唐使」に匹敵する有名な歴史年号である。
そのサンロクトオで特急「白鳥」がデビューした。40年にわたって大阪と青森の間を日本海に沿って結んだ名列車である。きょうの四方山話は、この名列車の処女運転で起きた椿事である。
舞台は新潟県の漁村、能生(のう)町(現・糸魚川市)。北陸本線の能生駅には大勢の地元町民が詰めかけていた。何しろ看板特急の「白鳥」が、それまで普通列車しか停まらなかった漁村の小駅に停車するというのだ。当時の特急は文字通り「特別急行」であって、今で言えば、新幹線の「のぞみ」や「はやぶさ」のような存在だ。それはもう町を挙げて上を下への大騒ぎである。
そうして待望の「白鳥」が姿を現した。クリームの車体に朱色の帯をまとった新鋭のキハ82系特急形気動車。構内はぱっと華やいだことであろう。祝賀ムードも最高潮を迎える。地元婦人会は浴衣姿で列車を出迎え、この日のために選出された「ミス能生」は「白鳥」の乗務員に贈呈する花束を抱いていたそうである。
だが停車してしばらく、「白鳥」のドアは一向に開く気配がない。そのまま「白鳥」は何事もなかったように動き出し、走り去っていった。特急は確かに停車したものの、乗り降りはできなかったのだ。呆気にとられる人々の姿が目に浮かぶようではないか。何らかのトラブルであったなら、まだ良かったかもしれない。よくよく確認してみると、能生駅は実は「白鳥」の停車駅ではなかったというのだから、いやはや呆れるほかない。
事の顛末はこうだ。「白鳥」の停車はいわゆる「運転停車」であった。運転停車というのは、乗務員の交代や列車の行き違い、時間調整など運転上の理由で停車することを言い、乗客を乗り降りさせる「客扱い」はしない。列車は停車してもドアは開かないので、市販の時刻表では通過扱いとなっている。当時の北陸本線は単線。「白鳥」は能生駅で対向列車を待ち合わせするために運転停車したに過ぎなかったのだ。
ところが、能生駅に掲出された時刻表には誤って鉄道関係者が使用する運転停車の時刻を記載してしまった。それを見た漁村の人々が「白鳥が停車する」と思うのは無理からぬことだった。「ミス能生」まで選出したのに、ふたを開けてみれば「国鉄のミス」だったというオチまで付いている。
朝日新聞は「国鉄が不手際」と報じ、「ぬか喜びの特急停車」と評した。「能生はNO!」という流行語まで生まれるほど、小さな漁村の名は図らずも全国区となった。この鉄道史に残る椿事は「能生騒動」と呼ばれている。
ちなみに、その後、能生駅には急行が停車するようになり、騒動から約20年の時を隔て、新潟と金沢を結ぶ特急「北越」も1往復が停車するようになった。悲願が成就したといってもいいだろう。
だが、利用状況が芳しくなかったのか、能生駅は再び元の特急通過駅に逆戻り。時は流れて2015年、北陸新幹線開業に伴い並行する北陸本線が第三セクターのえちごトキめき鉄道に移管されると、能生駅を通過する特急列車自体なくなった。
能生の人々にとって特急停車は、まさに邯鄲の夢であったのかもしれない。人の世も、そして人が集まる駅もまた、その栄枯盛衰は儚いものなのである。
執筆者プロフィール:
多田大樹
鉄道愛好家。大学卒業後、団体職員、新聞記者を経て編集者に。鉄道模型のジオラマ製作に凝っていたこともあったが、現在はロードバイクにはまっている。自転車で目的地に向かい、列車で輪行して帰ってくるという中途半端な鉄道ファン。